やりたかったことはなるべくとことんやりつくそう
「この先自分が何をやりたいのかわからない」
こういう悩みを抱えたまま生きる人は多いのではないだろうか。
そんな悩みに対しての回答やアドバイスのひとつに、
「小さかった頃、好きだったことがあなたの本当にやりたいことだ」
というものがある。
確かにそれも一理あるかもしれないが、小さかった頃に好きだったこと=魂のやりたいこととは限らない。
もしかしたらそれは、子どもの頃のあなたがやりたかったことであり、大人のあなたは実はもうそれは本来卒業しているはずのものであるというパターンかもしれないのだ。
「これから自分が何をやりたいかわからない」と、今不安になる前に、やりたかったけど、自分のためにやってあげられなかったこと、今更手をつけるなんてお金ももったいないし、いい年だし…と言いつつも、ずっと気になっていることはないか、問い直してみよう。
どういうことかというと、例えば子どもの頃、あなたが絵を描くこと、漫画を描くことが好きだったとする。いつしか将来は漫画家か絵描きになりたいと願った。純粋にそれらが好きだったから。
あるいは、「大人になったら働いたお金でうんとおしゃれを楽しみたい!」と、子どもの頃から夢見ていた。
しかし、成長するにつれて様々な事情から、別の夢が芽生えてきたり、自分の夢そのものを捨ててしまったり、或いは何らかの事情で叶えられず、蓋をしてしまう場合もあるだろう。
いずれにせよ、子どもの頃のあなたが抱いた好奇心、夢、願望は、成長していくあなた自身によってそこで強制的に終了されてしまったということになる。
月日が流れ、目に見えている現実ではそのことはもう終わったもの、捨てたものと思い込んではいても、気が付けば、まるで亡霊のように「成せなかったこと」があなたの脳裏に憑きまとっている。
何か別のことをしようにも、チラチラと「あの日の夢」が思い出され、大人のあなたがやるべきことや考えなければならないことに集中できない。そしてふとしたときに、こう考える――”やっぱりあのころの夢が、わたしの本当にやりたかったことだったのかもしれない。なぜ夢をあきらめたり、心変わりしたり、くだらないことと蓋をしてしまったんだろう?”と。
そんなときは、とことん自分が納得するまでやりたかったことを可能な限り、やりつくせばいい。
自分の中で中途半端だったことは、例えるなら未消化なまま食物がずっと胃の中に残っているようなものだ。
今更あの頃やりたかったことをやるなんて馬鹿げていると思えても「やってみたい」という欲求があるのなら挑戦してみよう。「過去に諦めたことだ」と、どんなに頭で自分を納得させようとしても、心の深い部分ではそうではないことは、自分が一番よく分かっているはずだ。
そのとき、子どもの頃の夢=自分のやるべきことと早合点はしないほうがいい。
まずはやってみる。
数か月、一年、二年とやり続けていくうちに、いつの間にかそれが自分の適職、天職となっていたり、それに近づく可能性が見えてくる場合もあるかもしれないが、世の中そんな人ばかりではない。
楽しみつくし、やるだけやってみて、疑問が湧いてきたり「この先にはこれ以上何もない…」と気付くパターンもあるだろう。
あの日置き去りにされた自分の中の少女・少年のために、大人のあなたは精一杯のことをした。
あなたの中の中途半端な部分を、あなたは満たしてやれたのだ。
その合図として「楽しかったけどなんか違う」「こと切れたかのように飽きてしまった」「これって今の私がずっと続けて行くべきことだろうか?」などといった、大人のあなたの声がふと湧いてきたらそれは、もう満足したという合図かもしれない。
いま一度、自分自身としっかり向き合う時間を取り、こう問い直してみよう。
自分の得意なこと、資質とは何だろうか。
楽しんで、なおかつ他者にも貢献できることとは?
将来自分はどう在りたいだろうか?
自分の喜びとは、なんだろう?
人には人の数だけ人生のパターンが存在するので、これらはほんの一例にすぎない。
こうだからこう、とは一概には言えないのだ。
けれども、やりたかったけど自分のためにやってあげられなかったことは、人生において少なからず影響を及ぼすのではないだろうか。
身体は成長しても、願いを叶えてもらえなかった子どもというのは内側に存在すると考えるならば、目には見えていなくても、気付いてほしくて心の深いところで私たちを操作しているかもしれない。
それをやっかいなものと受け止めるのではなく、共に成長する相棒のように接してみよう。
その子を満たしてやれば、裏で足を引っ張ることもなく、満足したら今度は大人のあなたの素晴らしい味方、パートナーとなってくれるはずだ。
大人のあなた、つまり魂のあなたの望むことを知りたいと心から願うのであれば、いままでやり残してきたことをやりつくすつもりで取り組んでみてはどうだろうか。
その向こうに、もっと大きな目的が見えてくるかもしれない。