心と人生の処方箋

人生には様々な困難や苦しみ、迷い、哀しみ、挫折がある。しかし人は、気付きと行動によって、誰でも自分自身の中に希望の星を見出すことができる。心を開き、気付きと創造の旅に出よう。たった一度の人生を、悔いのないものとなるように。

自分探しは旅に出なくてもできる

自分探しをしたくなるのは、なぜだろうか。

現状に満足できないから、自分のことが嫌いだから、ここではないどこかへいきたいから、刺激を受けて自分の可能性を探りたいから…。

 

理由は様々あるだろう。

実際、旅に出ると日常ではありえない人々との出会いがあったり、異文化から刺激を受け自分の経験の引き出しが増えたり、思ってもみなかった自分の可能性との出会いがあったりなど、メリットも沢山あるかもしれない。

人生経験としてなら、わずかな期間旅に出てみるのも悪くはないだろう。それで、自分が見つかったなら喜ばしいことだし、気分転換として、ひと時の旅に身を委ねるといった選択肢はもちろんありだ。

 

けれども、わずかな期間旅に出たところで本当の自分だと言えるものを発見できることは、稀なことなのではないかと思う。

 

自分の気持ちがわからない、何をしたいのかわからない、このままでいいのか不安だ、自分が好きになれない、居場所がないように感じるなど、自分を生きている感じがしないなら、人生という旅の中で、ゆっくり自分を知っていくことのほうがはるかに有効だと言える。

 

何が好きで何が嫌いか。どういったことに喜びを感じるのか、あるいは怒りを覚えるのか。好みの音楽、場所、雰囲気、食べ物、色、得意なこと、不得意なこと、許せないこと、不快なこと、憧れる人、今この瞬間の気分はどうか……などなど。

自分を知る手がかりは、日常の中にこそたくさんある。

旅は非日常で一時的なものだが、日常は死ぬまで続く。であるなら、日常の中で、丁寧に時間をかけて自分を知ってあげることのほうが、自分本来の感覚や感情を理解しやすいのではないだろうか。

若くして「自分で自分をちゃんと知っている」と胸を張って言えるのは、素晴らしいことだと思う。

しかし、教育環境や生活環境において、自分の声を無視して自分を閉じ込めてきてしまった時間の長い人は、今この時から、自分のために自分を理解し、知ってあげようと決めればいい。

他人のことを気に掛けるよりも、自分に意識を向けてあげよう。

 

人は誰もが、その人の生活環境としての日常と「自分」からは逃れられない。

自分探しとかこつけて、逃げの口実から旅に出る人もいる。現状が苦しければ苦しいほど、そこから逃げ出せば束の間の平穏は訪れるかもしれない。水を得た魚のように、生きている実感を取り戻せることもあるだろう。

けれど、ずっと逃げてばかりもいられない。

辛い日常、面白くない日々、つまらない自分…いつかは向き合わなければならない時がやってくる。

それらを変える一歩として、まずは自分を知ってやること。

自分の内面を知っていけば、疑問も湧いてくる。

 

例えば、本当の私は自然や静かな場所が好きだ。けれど、今の職場は灰色のビルとパソコンと人に囲まれた職場だ。いつもストレスを抱えている。ではなぜ、現状を我慢しているのだろう?収入が減ったら困るから、次の仕事になんてそうそう巡り合えないと思い込んでいるから、なんだかんだ言って、恩恵に与っていられるから、自分が辞めたら、周囲に迷惑がかかるから。でもやっぱり辛い、いやだ。こんなふうに感じる自分も嫌いだ。認めたくない――。

 

自分を知ることで、思わぬ本音が見えてくるかもしれない。

さらにその奥には、我慢している自分に対して「悲しみ」という感情があるのを発見することもあるだろう。

 

知ったところで、やはり現状維持と判断したならそれでもいい。もしもあなたが家族を養っている立場であったり、なんらかの責任がある場合は、自分を知ったからと言ってすぐに現状を変えるのは難しいことかもしれない。

 

けれど、日常を流されるままに過ごし、自分で自分のことすらわからなくなっている状態よりは、自分のことを自分で理解してあげることができたなら、それだけでもどこか安心感を覚えたり、納得できたりはしないだろうか。

あなたがあなたを受け入れたことで安心するのは、今まで否定し、隅に追いやってきたもう一人のあなただ。

 

自分を知ることの大切さは、その内容ももちろん大切だが「自分でちゃんと自分のことを知っていてあげる」という態度にある。

 

まずは自分自身が、あなた自身があなたを一番よく知ろうと努力すること。そうして自分に素直になることができたなら、可能であればパートナーや家族、仕事仲間に丁寧に打ち明けてみよう。きっと誰かが協力してくれるはずだ。

 

自分を大切にしてほしい人物。自分を一番に理解してほしい人物は、親でもパートナーでも友人でもなく、自分自身なのだ。

物質的に自分がもう一人目の前にいるわけではないが、結局のところ、自分を愛し統合するということが、自分探しの究極の目的なのではないだろうか。