誰かを見て苛々したり嫉妬したりするのは、自分もそうで在りたいから
インターネットが広く普及されている現代社会において、私たちは簡単に、他者の思想や人生などを見ることができるようになった。
便利になる一方で、誰かの発信している内容と今の自分とを比較しては落ち込んだりすることもあるかもしれない。
自分とその人をいちいち見比べては、その人にあって自分にはないものをあげつらい、不愉快な気分になる。ネットの向こうの相手がすごく輝いて見えるがゆえに、心の中で相手を罵倒してみたり、失敗を願ったり、自分の方が幸せだと無理矢理優越感を持とうとする。
しかし、本当は心の奥底では本音に気付いていたりするものだ。
これは嫉妬であると。
人は、自分がそうなりたい、やってみたいと願う在り方を他者が生きていると、苛立ちや嫉妬を覚えるものだ。
「いい気になっててムカつく、非常識だ、自慢ばかりして許せない、うっとおしい」などなど口ではそう言いながらも、気になってしょうがない。本当は心のどこかで羨ましいと思う自分がいる。それがまた気に喰わず、苛々や不満感は募るばかり。相手はネットの向こうあるいはテレビの向こうの誰かであり、端から見れば「見るのやめればいいのに」という一言で片付いてしまいそうなものだ。
しかしここは、心を開き勇気をもって、自分の本心をまずは受け止めてみよう。
あなたが対象の相手に抱く思いを、一つずつ書きだしてみる。
誰に見せるわけでもないので、誤魔化したりせず、取り繕ったりせず、こどものように正直に。
夢を叶え続けていて、羨ましい。
自分も欲しかった物を持ってて、羨ましい。
言いたいことを発信出来て、羨ましい。
堂々としていて、羨ましい。
イキイキとしていて、羨ましい。
いつも楽しそうで、羨ましい。
好きなことでお金を稼げて、羨ましい。
すべてにおいて私よりも幸せそうで羨ましい――。
こんな思い感情を密かに誰かに抱き続けている人は、少なくない。
すべてにおいて、その人が本当に幸せであるかどうか、そしてあなたがその人よりも幸せではないという判断が本当かどうかはまた別の話になるのでここでは書かないが、誰かに対する嫉妬というのは、要するに自分もそう在りたいという心からの願いであり、「私もそうなれる」という自分へのメッセージなのである。
ただし、注意しなければならない点がある。
それは、今のあなたが激しい嫉妬を感じ、羨ましいと思う誰かと同じ物を手に入れたり、同じようなこと、もしくは好きなことを仕事にできたりしても、それで本当にすべてが満たされるとは限らない。
大切なのは、何を買った、何をしている、どれくらいの収入がある、どこへ行ったかという付属品ではなく、心の在り方であり、生き方なのだ。
本当はやってみたいことがあるのに、自分で自分の殻に閉じこもっていたり、どうせ自分なんかと自らの可能性を閉じ込めていたりして、一歩も身動きの取れない状態であると決めつけてはいないだろうか。
嫉妬してしまう理想の誰かは、そこに至るまでに様々な困難や努力があったかもしれない。
もしかしたら、今嫉妬を抱きながらくすぶっているあなたよりも酷い状態であったかもしれない。
けれど彼らは現状に留まることを良しとせず、一歩を踏み出した人たちである。
そんな一歩一歩の積み重ねと魂の研磨が実り、あなたが羨ましいと思う姿がそこにあるのだ。
人は、自分の可能性とは全く関係のない人には嫉妬を抱かない。
いいなと思っても、すぐに忘れる。
嫉妬は気付きのメッセージだ。
このまま悶々としているよりも、やってみたいことがあるのなら、まずは一歩行動に移してみよう。
羨ましい誰かのことを気にするのではなく、自分の声を聞いてあげよう。
あなたを幸せにするのは、あなたしかいない。
そしてその力は、誰にでも平等に与えられているのである。