恋愛相談によくある「相手と付き合えますか?」という質問に対して
「可能か不可能か」という問い
恋をすると、その人と付き合えるかどうかということは気になるものだ。しかし自分から気持ちを伝える勇気がなく、悶々とした日々を過ごし、毎日のように星占いを調べたり、時には可能性を胸に抱きながら占い師らの元を訪れこんな質問をしてしまう。
「私は彼・彼女と付き合えますか?」
ズバリ結論から言ってしまうと、「付き合えるかどうか?」という質問は、自分の利害中心の質問だと言える。
もちろん、好きな相手と付き合えるかどうかは、恋をしている人間にとっては人生最大の悩みである人もいるだろうし、そこまでとはいかなくとも、心と頭の大部分を占める問題なのかもしれない。「利害しか考えていない」などと言われて、純粋な恋心を踏みにじられたかのように感じることもあるだろう。
けれど、できるかどうかを最初に知ることで、自分は何を得たいのだろうか?
「意中の相手と付き合える」という可能性を示され、安心感と期待感、そして告白する勇気を得たいのだろうか。
「付き合えない」という結果を聞いたことで、がっくりと肩を落とし、自分から彼に告白することもしないまま諦めてしまうのか。それとも、その占い師らに「じゃあどうしたら付き合えるか」といったことを問いただすのか……。
いずれにせよ、この場合関心事は自分の利害・損得にしか向かっていないことになる。
獲物を狙うハンターであり、ハンターは獲物をどうやったら獲得できるかということしか頭にないし、ハンターはいちいち獲物の気持ちなど考えはしない。獲物をおびき寄せる手段を考え実行することはあっても、それは獲得するという目的があってのことだ。
恋愛は、自分を知るための学びの宝庫
あなたが本当に相手と「付き合いたい」と願うのであれば、ハンターになるのはよそう。
ハンターでいることは、狩ることが出来るかどうかという偏った緊張状態を作り出す。
ビジネスでもあるまいし、そんなことを四六時中気にして悶々と過ごしているよりも、まずは今、恋している自分に対してもっと違う質問を生みだしてみてはどうだろうか。
自分がこの恋愛においての学びや気付くべきことはなんだろうか?
好きな人に告白する勇気が持てないのはなぜか?
そもそも本当に告白する勇気が自分にはないのだろうか?
自分に自信がないのなら、そこが問題の本質なのでは?
もし相手と付き合えたとして、自分はそれでも自然体でいることができるだろうか?
相手を色眼鏡でみてはいないか?
付き合えるかどうか心配するのではなく、恋をしている自分をただ純粋に楽しむということも、素晴らしいことなのではないだろうか?
付き合えるかどうかを気にしている自分は、相手の気持ちをちゃんと考えられる人間なのだろうか?
あなたがもし積極的なのであれば、まずは気持ちの交流を心がけてみよう。
「付き合えるかどうか」という可能性を値踏みしながらではなく、ただ楽しめばいい。
もし自分は消極的で、話をするなんてとてもできないというのであれば、あなたが相手を好きになった理由をまずは客観的に捉え直してみよう。話すらできない相手を好きになったのはなぜか、どうしたら相手のことをもっと知ることが出来るか。
付き合えるかどうかを質問してくる人が全員利害しか頭になく、ハンターでしかないと言っているのではない。中には、もっと他に聞くべきことがあるような気はするのだけど、上手く言葉にできなかったり、若さゆえの人生経験の少なさから、可能か不可能かという二択での質問しか浮かばないといったケースもあるだろう。
誰かに相談するに限らず、自分に対してどんな質問を抱き、どう考えるかでそこで得られるものは変わってくる。
ちょっとしたお楽しみ気分で星占いを眺めたりするのはいいが、可能か不可能かという結果にばかり振り回されてしまうのは嘆かわしいことだし、誰かに補償してもらわなければ自分からは何もしない人間になってしまいかねない。
恋愛経験は、本当の自分を知っていくための学びの宝庫なのである。
「出来るか出来ないか」にばかりウエイトをおくのをやめよう
ここに書かれてあることは極端かもしれないが、恋愛に限らず「出来るか出来ないか」の答えを軸として行動してしまうクセが自分にないかどうか、振り返ってみよう。
そもそも「出来るかできないか」のみをわざわざ占い師らの元に訪れて聞いて終わりでは、時間と金の無駄である。
良い占い師などは、「出来る出来ない」には答えず、もっと物事の本質を探ろうとする。
そして相談者がハッとしてしまうような、思ってもみなかった問いを投げかけてきたりするのだ。
中には「結果だけ教えてくれればいいから」と、自分と向き合うことさえしようとしない人もいるだろう。
そういう人は、何かにつけて「出来るか出来ないか」という表面的な答えを得ることだけに終始し、延々と同じパターンを繰り返す。
自分からアクションを起こして相手に告白し、その結果が良くても悪くても「自分から行動を起こすことができた」という勇気が自分にあることを発見できるし、自分から心を開いて飛び込んで行くという素晴らしい行動力があることを、自分に証明してみせることができる。
もし結果が望ましくないものであったとしても、そこできちんとゼロになり自分なりにやり切ったと言えるのであれば、それは必ずあなたの肥やしになる。
恋愛も、仕事も、趣味も、「出来る出来ない」「損か得か」でばかり物事を判断していては、自分の心身の経験値が増えることはないし、成功や失敗から自分を深く知っていく機会も減るだろう。
恋愛で失敗することは、痛みをともなう。
悲しいし、辛い。自分という存在を全否定されたかのような気がすることもあるだろう。
けれど、そこから学び、得られることは沢山ある。
それが怖いからと結果ばかり知りたがるのは、いかがなものだろうか。
もっと恋愛経験を味わい、自分を知り、そして自分が本当に望む相手を知っていこうとする方が、結果を知るより何倍も――何百倍も価値のあることなのだ。
タロットを勉強することは、自己分析能力を上げることにも繋がる
タロットには、人間が体験・経験することのすべてが描かれている。
タロットというと占いのイメージが強いし、もちろん占いのツールでもあるのだが、それだけではなく自分を知るための、カードの体系をした教科書・説明書という役割を持つツールでもある。
大アルカナカード22枚は0の愚者から21世界までの成り立ちで構成されており、それらには、私たちの物事の始まりの段階から一つの完成へと至るまでのプロセスが描かれている。
小アルカナは56枚。1から10の数字と4つのスートから成り立つ40枚のカードと、そのスートを扱う階級或いは意識の発達段階の違う人物が描かれた16枚のコートカードから成り立っている。
これらも、私たちが体験、経験する物事をより具体的に現すものとなっている。
「物事」と書いたが、実際のところ、タロットは私たちの潜在意識や内面変化のプロセスを映し出している。なぜなら、外側の出来事は私たち個人の内側を映し出してもいるからだ。
例えば、常識や「こうあらねばならない」といった理想や考えに縛られている人の前に、自由奔放で非常識な人間が現れ、イライラさせられる。しかしその出来事は、自分の内面にある常識に縛られ、それが自分にとってすでに重荷や苦しみになっている自分、本当はもっと奔放に振る舞いたい自分、相手を自分の思い通りにさせたい自分等に気付くために見せられた映像だった…という具合に。
自分を客観的に見つめ、常に冷静に自己分析できる余裕、メタ思考能力があれば良いのだが、私たちはどうしても自分の価値観という狭い範囲で物事を判断しがちだ。
だから苦しむし、達成したい何かがあってもいつも同じところで失敗したり、つまずいたり、更には「やっぱり自分はダメなやつなんだ」と人生そのものを投げ出してしまうことも起こりうる。
どうしようもなく高い壁が立ちはだかり、自分にはどうにもできないと諦め、ますます「自分は無力だ」といった烙印を自らに押し付けてしまう。
そんな時、私たちは視野が狭くなっているか、同じ行動パターンが繰り返されているかのどちらかに陥ってはいないかなど、自己分析してみる必要がある。。
他人の背中は良く見えるもので、幸運にも身近な誰かが指摘してくれることもあるかもしれない。
アドバイス(あくまでも適切なアドバイス)を素直に受け入れ、行動に移し、変化していけるならそれに越したことはない。
しかしそのような機会に恵まれても、身近な人の意見ほど軽んじてしまう傾向もあったりして、なかなか思うようにはいかないものだ。
けれどタロットが現す世界観を勉強し、心を開いて理解しようと努めるならば、自分がどの罠に落ちいっているのかを見抜ける可能性は大いにある。
タロットには、学校や社会では教えられなかった「人間」に関することが沢山描かれているからだ。
何かの問題に直面したとき、これまでの価値観や判断基準、ありきたりの意見などではないメッセージをタロットはもたらす。
だからこそ、客観的に自分を見るという余裕を与えられ、その人自身の内面の新陳代謝を促し、気付きを得ることができるのではないだろうか。
つまり、それまでとは全く違う視点や気付きを得られることによって、自己分析能力があがるというわけだ。
ちなみに、自己を分析しようにも、物事を見るわずかな視点しか持ち合わせていないのならば、いつものパターンに陥ってしまうのも無理はない。
タロットを知るということは、自分を知っていくということにも繋がる。
タロットは基本的にそのときに出たカードを読んでいくものだが、22枚ないし78枚のカードから選ばれたカードは、物質的に意図して選んだものではない、というところにタロットの本質があるように思う。
偶然出た、あるいは運命によって選び出されたカードだからこそ、そこから思いもしなかったメッセージを読み取ることができる。
だからこそ、柔軟な視点で物事を見る目を養えるし、私たちの心を縛りつけている何かから解き放ち、新たな活力を与えてくれるのではないだろうか。
誰かを見て苛々したり嫉妬したりするのは、自分もそうで在りたいから
インターネットが広く普及されている現代社会において、私たちは簡単に、他者の思想や人生などを見ることができるようになった。
便利になる一方で、誰かの発信している内容と今の自分とを比較しては落ち込んだりすることもあるかもしれない。
自分とその人をいちいち見比べては、その人にあって自分にはないものをあげつらい、不愉快な気分になる。ネットの向こうの相手がすごく輝いて見えるがゆえに、心の中で相手を罵倒してみたり、失敗を願ったり、自分の方が幸せだと無理矢理優越感を持とうとする。
しかし、本当は心の奥底では本音に気付いていたりするものだ。
これは嫉妬であると。
人は、自分がそうなりたい、やってみたいと願う在り方を他者が生きていると、苛立ちや嫉妬を覚えるものだ。
「いい気になっててムカつく、非常識だ、自慢ばかりして許せない、うっとおしい」などなど口ではそう言いながらも、気になってしょうがない。本当は心のどこかで羨ましいと思う自分がいる。それがまた気に喰わず、苛々や不満感は募るばかり。相手はネットの向こうあるいはテレビの向こうの誰かであり、端から見れば「見るのやめればいいのに」という一言で片付いてしまいそうなものだ。
しかしここは、心を開き勇気をもって、自分の本心をまずは受け止めてみよう。
あなたが対象の相手に抱く思いを、一つずつ書きだしてみる。
誰に見せるわけでもないので、誤魔化したりせず、取り繕ったりせず、こどものように正直に。
夢を叶え続けていて、羨ましい。
自分も欲しかった物を持ってて、羨ましい。
言いたいことを発信出来て、羨ましい。
堂々としていて、羨ましい。
イキイキとしていて、羨ましい。
いつも楽しそうで、羨ましい。
好きなことでお金を稼げて、羨ましい。
すべてにおいて私よりも幸せそうで羨ましい――。
こんな思い感情を密かに誰かに抱き続けている人は、少なくない。
すべてにおいて、その人が本当に幸せであるかどうか、そしてあなたがその人よりも幸せではないという判断が本当かどうかはまた別の話になるのでここでは書かないが、誰かに対する嫉妬というのは、要するに自分もそう在りたいという心からの願いであり、「私もそうなれる」という自分へのメッセージなのである。
ただし、注意しなければならない点がある。
それは、今のあなたが激しい嫉妬を感じ、羨ましいと思う誰かと同じ物を手に入れたり、同じようなこと、もしくは好きなことを仕事にできたりしても、それで本当にすべてが満たされるとは限らない。
大切なのは、何を買った、何をしている、どれくらいの収入がある、どこへ行ったかという付属品ではなく、心の在り方であり、生き方なのだ。
本当はやってみたいことがあるのに、自分で自分の殻に閉じこもっていたり、どうせ自分なんかと自らの可能性を閉じ込めていたりして、一歩も身動きの取れない状態であると決めつけてはいないだろうか。
嫉妬してしまう理想の誰かは、そこに至るまでに様々な困難や努力があったかもしれない。
もしかしたら、今嫉妬を抱きながらくすぶっているあなたよりも酷い状態であったかもしれない。
けれど彼らは現状に留まることを良しとせず、一歩を踏み出した人たちである。
そんな一歩一歩の積み重ねと魂の研磨が実り、あなたが羨ましいと思う姿がそこにあるのだ。
人は、自分の可能性とは全く関係のない人には嫉妬を抱かない。
いいなと思っても、すぐに忘れる。
嫉妬は気付きのメッセージだ。
このまま悶々としているよりも、やってみたいことがあるのなら、まずは一歩行動に移してみよう。
羨ましい誰かのことを気にするのではなく、自分の声を聞いてあげよう。
あなたを幸せにするのは、あなたしかいない。
そしてその力は、誰にでも平等に与えられているのである。
自分探しは旅に出なくてもできる
自分探しをしたくなるのは、なぜだろうか。
現状に満足できないから、自分のことが嫌いだから、ここではないどこかへいきたいから、刺激を受けて自分の可能性を探りたいから…。
理由は様々あるだろう。
実際、旅に出ると日常ではありえない人々との出会いがあったり、異文化から刺激を受け自分の経験の引き出しが増えたり、思ってもみなかった自分の可能性との出会いがあったりなど、メリットも沢山あるかもしれない。
人生経験としてなら、わずかな期間旅に出てみるのも悪くはないだろう。それで、自分が見つかったなら喜ばしいことだし、気分転換として、ひと時の旅に身を委ねるといった選択肢はもちろんありだ。
けれども、わずかな期間旅に出たところで本当の自分だと言えるものを発見できることは、稀なことなのではないかと思う。
自分の気持ちがわからない、何をしたいのかわからない、このままでいいのか不安だ、自分が好きになれない、居場所がないように感じるなど、自分を生きている感じがしないなら、人生という旅の中で、ゆっくり自分を知っていくことのほうがはるかに有効だと言える。
何が好きで何が嫌いか。どういったことに喜びを感じるのか、あるいは怒りを覚えるのか。好みの音楽、場所、雰囲気、食べ物、色、得意なこと、不得意なこと、許せないこと、不快なこと、憧れる人、今この瞬間の気分はどうか……などなど。
自分を知る手がかりは、日常の中にこそたくさんある。
旅は非日常で一時的なものだが、日常は死ぬまで続く。であるなら、日常の中で、丁寧に時間をかけて自分を知ってあげることのほうが、自分本来の感覚や感情を理解しやすいのではないだろうか。
若くして「自分で自分をちゃんと知っている」と胸を張って言えるのは、素晴らしいことだと思う。
しかし、教育環境や生活環境において、自分の声を無視して自分を閉じ込めてきてしまった時間の長い人は、今この時から、自分のために自分を理解し、知ってあげようと決めればいい。
他人のことを気に掛けるよりも、自分に意識を向けてあげよう。
人は誰もが、その人の生活環境としての日常と「自分」からは逃れられない。
自分探しとかこつけて、逃げの口実から旅に出る人もいる。現状が苦しければ苦しいほど、そこから逃げ出せば束の間の平穏は訪れるかもしれない。水を得た魚のように、生きている実感を取り戻せることもあるだろう。
けれど、ずっと逃げてばかりもいられない。
辛い日常、面白くない日々、つまらない自分…いつかは向き合わなければならない時がやってくる。
それらを変える一歩として、まずは自分を知ってやること。
自分の内面を知っていけば、疑問も湧いてくる。
例えば、本当の私は自然や静かな場所が好きだ。けれど、今の職場は灰色のビルとパソコンと人に囲まれた職場だ。いつもストレスを抱えている。ではなぜ、現状を我慢しているのだろう?収入が減ったら困るから、次の仕事になんてそうそう巡り合えないと思い込んでいるから、なんだかんだ言って、恩恵に与っていられるから、自分が辞めたら、周囲に迷惑がかかるから。でもやっぱり辛い、いやだ。こんなふうに感じる自分も嫌いだ。認めたくない――。
自分を知ることで、思わぬ本音が見えてくるかもしれない。
さらにその奥には、我慢している自分に対して「悲しみ」という感情があるのを発見することもあるだろう。
知ったところで、やはり現状維持と判断したならそれでもいい。もしもあなたが家族を養っている立場であったり、なんらかの責任がある場合は、自分を知ったからと言ってすぐに現状を変えるのは難しいことかもしれない。
けれど、日常を流されるままに過ごし、自分で自分のことすらわからなくなっている状態よりは、自分のことを自分で理解してあげることができたなら、それだけでもどこか安心感を覚えたり、納得できたりはしないだろうか。
あなたがあなたを受け入れたことで安心するのは、今まで否定し、隅に追いやってきたもう一人のあなただ。
自分を知ることの大切さは、その内容ももちろん大切だが「自分でちゃんと自分のことを知っていてあげる」という態度にある。
まずは自分自身が、あなた自身があなたを一番よく知ろうと努力すること。そうして自分に素直になることができたなら、可能であればパートナーや家族、仕事仲間に丁寧に打ち明けてみよう。きっと誰かが協力してくれるはずだ。
自分を大切にしてほしい人物。自分を一番に理解してほしい人物は、親でもパートナーでも友人でもなく、自分自身なのだ。
物質的に自分がもう一人目の前にいるわけではないが、結局のところ、自分を愛し統合するということが、自分探しの究極の目的なのではないだろうか。
自分で自分を蔑ろにするのをやめるべし
人の顔色を伺って、つい「いい人」を演じてしまうクセはないだろうか。
自分の気持ちに蓋をし続けたところで、良いことなど何一つない。
強いて言えば、本当はそうしたくもないのにあなたが他人を優先することで、ほんの一瞬束の間の優越感や偽りの自己満足に浸ることができるくらいだ。
他人は、あなたが自分の思い通りになったと喜ぶかもしれない。
それで人間関係が円滑になったと見えることもあるだろうが、大抵長続きなどしないし、続いたところでそんな関係が良好で対等であると、果たして言えるだろうか?
「そうは言っても、〇〇さんが…」
「だって彼にも気を使わないと…」
「ワガママで自己中な人って思われたくないし…」
「良い人って思われたいし、好かれたいし…」
人間関係において、つい自分の本心本音を後回しにしたり、なかったことにしてしまう人の心の声は、おおかたこんなところである。
(ちなみに、いくら自分の本心本音だからと言って、社会や公共の法律・マナーを守らなかったり、闇雲に人を傷つけていいということではもちろんない)
湧いてきた感情や感覚、本心、本音をあたかも無かったことのようにして取り繕い、自分にさえも嘘をつき続ければ、いずれ自分で自分のことがわからなくなるといった事態に陥ってしまうのも無理はないし当然の結果とも言える。
肉体としてのあなたはそこにいるのに、心や魂としての真のあなたは奥深くにしまい込まれている。
あなたがせっかくあなたとして生まれ、なによりも意識という摩訶不思議なものを与えられた存在であるのにも関わらず、その自分を生きないというのは非常にもったいないことだ。
あなたが意識できるのは、あなた自身の意識だけだというのに。
外側を気にするのはなぜだろうか。
自分の本音で生きる人に嫌悪感を抱くのはなぜだろう。
あなたが自分に正直になり、本心本音に従って生きているとき、他者に否定されたり嫌なことを言われたりするのはなぜか?
それは、自分自身に対する罪悪感があり、本心本音で生きることを自分に許せていない自分がまだ内側にいるということを、他者が教えてくれているからに他ならない。
もしあなたが完全に、自分を蔑ろにせず心と魂の声に従って生きていくことを自分に許したならば、それを阻むような人間関係は変化せざるを得ないし、もうあなたにとって不要なものであるなら、自然に流されてゆくはずだ。
他者を大切にするとは、自分を欺いてまで他者に合わせたり機嫌を取ったりすることではない。
そもそも、あなたが他人の顔色やら気分やらを推測したとしても、それはあくまで推測だ。
相手の気持ち、本心本音、魂の声はあなたにどうにかしてもらうべきものではなく、その人自身がどうにかすべきものであって、あなたの捨て身の気遣いはたんなるおせっかいにしかすぎない可能性も十分にある。
相手はあなたが合わせてあげなければならないかわいそうな、あるいは強すぎる存在として捉えてはいないか、今一度確認してみよう。
もし自分を蔑ろにし続けた結果、どうにも修正が難しく最悪な状況になってしまっている場合は、しかるべき機関や専門家などに助けを求め、まずは身の安全を確保すること。
圧倒的な上下関係が出来てしまっている場合、私たちは自分を弱い者だと思い込んでしまっている。そういう世界を創り上げ、長期間そのような状態であった場合、壊すのには大変な勇気と覚悟がいるだろう。
そんなときは、いきなり相手と対峙しようとせず、まずはどうしたら身の安全を確保できるかを考え、信頼できる人の意見を参考にしながら一歩ずつ快適な環境を自分に与えてやることを優先しよう。
自分を蔑ろにして良いことなどひとつもない。
あなたは誰の人生を生きたいのだろう?
自分を知り、自分を思い切り味わいつくし、人生という短い時間を悔いなく生きたいのではないだろうか。
自分を敬い、大切に扱い、そして信頼しよう。
自分で自分がわからなくなることは、悲しいことだ。
あなたに湧いてくる感情や感覚や思い考えは、あなたオリジナルのものであり、金を出せば手に入るものではない。そしてそれは、あなたという無限の可能性を探り、潜在能力を開花させるための宝の鍵でもあるのだ。
やりたかったことはなるべくとことんやりつくそう
「この先自分が何をやりたいのかわからない」
こういう悩みを抱えたまま生きる人は多いのではないだろうか。
そんな悩みに対しての回答やアドバイスのひとつに、
「小さかった頃、好きだったことがあなたの本当にやりたいことだ」
というものがある。
確かにそれも一理あるかもしれないが、小さかった頃に好きだったこと=魂のやりたいこととは限らない。
もしかしたらそれは、子どもの頃のあなたがやりたかったことであり、大人のあなたは実はもうそれは本来卒業しているはずのものであるというパターンかもしれないのだ。
「これから自分が何をやりたいかわからない」と、今不安になる前に、やりたかったけど、自分のためにやってあげられなかったこと、今更手をつけるなんてお金ももったいないし、いい年だし…と言いつつも、ずっと気になっていることはないか、問い直してみよう。
どういうことかというと、例えば子どもの頃、あなたが絵を描くこと、漫画を描くことが好きだったとする。いつしか将来は漫画家か絵描きになりたいと願った。純粋にそれらが好きだったから。
あるいは、「大人になったら働いたお金でうんとおしゃれを楽しみたい!」と、子どもの頃から夢見ていた。
しかし、成長するにつれて様々な事情から、別の夢が芽生えてきたり、自分の夢そのものを捨ててしまったり、或いは何らかの事情で叶えられず、蓋をしてしまう場合もあるだろう。
いずれにせよ、子どもの頃のあなたが抱いた好奇心、夢、願望は、成長していくあなた自身によってそこで強制的に終了されてしまったということになる。
月日が流れ、目に見えている現実ではそのことはもう終わったもの、捨てたものと思い込んではいても、気が付けば、まるで亡霊のように「成せなかったこと」があなたの脳裏に憑きまとっている。
何か別のことをしようにも、チラチラと「あの日の夢」が思い出され、大人のあなたがやるべきことや考えなければならないことに集中できない。そしてふとしたときに、こう考える――”やっぱりあのころの夢が、わたしの本当にやりたかったことだったのかもしれない。なぜ夢をあきらめたり、心変わりしたり、くだらないことと蓋をしてしまったんだろう?”と。
そんなときは、とことん自分が納得するまでやりたかったことを可能な限り、やりつくせばいい。
自分の中で中途半端だったことは、例えるなら未消化なまま食物がずっと胃の中に残っているようなものだ。
今更あの頃やりたかったことをやるなんて馬鹿げていると思えても「やってみたい」という欲求があるのなら挑戦してみよう。「過去に諦めたことだ」と、どんなに頭で自分を納得させようとしても、心の深い部分ではそうではないことは、自分が一番よく分かっているはずだ。
そのとき、子どもの頃の夢=自分のやるべきことと早合点はしないほうがいい。
まずはやってみる。
数か月、一年、二年とやり続けていくうちに、いつの間にかそれが自分の適職、天職となっていたり、それに近づく可能性が見えてくる場合もあるかもしれないが、世の中そんな人ばかりではない。
楽しみつくし、やるだけやってみて、疑問が湧いてきたり「この先にはこれ以上何もない…」と気付くパターンもあるだろう。
あの日置き去りにされた自分の中の少女・少年のために、大人のあなたは精一杯のことをした。
あなたの中の中途半端な部分を、あなたは満たしてやれたのだ。
その合図として「楽しかったけどなんか違う」「こと切れたかのように飽きてしまった」「これって今の私がずっと続けて行くべきことだろうか?」などといった、大人のあなたの声がふと湧いてきたらそれは、もう満足したという合図かもしれない。
いま一度、自分自身としっかり向き合う時間を取り、こう問い直してみよう。
自分の得意なこと、資質とは何だろうか。
楽しんで、なおかつ他者にも貢献できることとは?
将来自分はどう在りたいだろうか?
自分の喜びとは、なんだろう?
人には人の数だけ人生のパターンが存在するので、これらはほんの一例にすぎない。
こうだからこう、とは一概には言えないのだ。
けれども、やりたかったけど自分のためにやってあげられなかったことは、人生において少なからず影響を及ぼすのではないだろうか。
身体は成長しても、願いを叶えてもらえなかった子どもというのは内側に存在すると考えるならば、目には見えていなくても、気付いてほしくて心の深いところで私たちを操作しているかもしれない。
それをやっかいなものと受け止めるのではなく、共に成長する相棒のように接してみよう。
その子を満たしてやれば、裏で足を引っ張ることもなく、満足したら今度は大人のあなたの素晴らしい味方、パートナーとなってくれるはずだ。
大人のあなた、つまり魂のあなたの望むことを知りたいと心から願うのであれば、いままでやり残してきたことをやりつくすつもりで取り組んでみてはどうだろうか。
その向こうに、もっと大きな目的が見えてくるかもしれない。